第一回討論会
〜平和を考える『第三者』とは善か悪か〜
提案日:2001/10/13
提案者:栃木光太郎


 オレのクラスでみんなにあじさいについて話した後、一人のこのような意見があった。

『アフガン難民やニューヨークの被害者など、自分たちが行動する対象について「かわいそう」という気持ちを持つのは本当の平和につながらないのではないか。それは完全に第三者的な視点で、同情の気持ちでしかない。戦争に直接かかわっている人は、誰かが死んでいくとき「かわいそう」なんて思わない。必死でその人のことを心配し、行動するのだと思う。同情の気持ちを持つのは相手を見下しているし、その時点で自分を「戦争と関係ないもの」にしている』



 オレたちの会が始めようとしていることはいったい何なのだろうか? 代表のオレとしては、この会の「理念」は一つの意見として筋が通っていると思う。多分ほとんどの人が、この会の理念について一定の理解を示してくれることだろう。

〜ひとり一人が平和について考え、行動することから平和への道は始まる〜

 理念の中で、オレたちがこの会を発足させた動機は、『「世界が平和になって欲しい」という気持ち』とか『私たちは誰かがむやみに苦しむのを残酷に思い、そして助けたいという気持ちを持っている』などと表現されている。また、「むやみに苦しむ何の罪もない人々を助けるためにこそ行動を起こす」 という表現からも、オレが、そして会を発足させたこのメンバーの大部分が、言ってみれば「同情」の念から、それを理由に行動を始めようとしていると言える。
 しかし、その「同情」とは、例えばアフガン難民に向けられたとすれば、それは自分たちを何か偉い存在にしたてあげているし、彼らを「助けてあげている」という気持ちを意味するのではないか。「自分たちは傍観者であり、第三者である」と宣言しているようなものだ。「彼らが飢えに苦しみ、今にも死にそうなのはオレ達には関係のないことだけど、かわいそうだから助けてあげよう」というように・・・。



 だが、オレは「同情」とは醜いものだとも思う。しかし、単に「同情」を悪者にしたいわけではない。だってそうだろう、別に第三者として、傍観者としてであっても、オレたちが募金活動をして、そしてそのお金がアフガン難民のために使われれば、彼らは大いに助かるのだから・・・。
 例えば、オレが、自分に何の罪もなく、理不尽に砂漠でさまようことになったとして、渇きで今にも死にそうだったら、もしその時にそれを見ていた誰かが水を投げ入れてくれれば、オレは命をつなぎ、そして水をくれた人に感謝するだろう。水をもらったことでオレが生きのびたことに変わりないから、誰かの「水を投げ入れる」という行動は、極めて平和的で、意味のある行動であるのだ。オレはその行動を理念の中で「誰もがすべき、当たり前の行動」と定義づけている。
 しかし、どうだろう。水を投げ入れた人間の心を見てみるのだ。それはまた醜いものであるかもしれないとは思わないだろうか。彼はなぜオレを助けたと思うか。「同情」からだろう。

 オレは今、自分はあきらかに第三者であるしかないと思う。アメリカ軍の空爆で被害を受ける人は、直接にオレの家族でもなければ友達でもない。ニューヨークの連続テロの行方不明者に、オレと直接関係のある人物の名前はないだろう。オレは、「世界」というコロシアムに立つ剣闘士のたちの「戦争」という殺し合いを見る『傍観者』あることは確からしい。ただオレはその光景をみて「かわいそうだ。かわいそうだ」と言って、残虐にやられていると見える方に、外から自分にとってほとんど価値がないような、ぼろい服や安い食料をちょっとだけ放り入れているのだ。それこそが『第三者の目』なのだ。



 ドストエフスキーの「罪と罰」では、少年は最後に、残虐な行動をした人に対して殴りかかる。オレはそれが人間の本来の姿だと思う。しかしそこには空白があるのだ。『当事者』と『第三者』の間には。例えば少年が「酔っ払い」だったとしたら、また彼も馬を殺そうと棍棒を握っていたかもしれない。また、『第三者』の中にはその残虐な風景を見て笑っているものもいるし、父のように「そんな汚いもの見るな」と言って逃げようとする者もいる。そして、少年のように「平和的」な行動を起こすものもいるのだ。実はこの小説の中で、少年は主人公の夢の中の彼であった。主人公は罪を犯していた。それは少年が残酷に思った酔っ払いたちの行動と同じ犯罪であった・・・。

  兎にも角にも、人間とは、自分が『第三者』となったとき、とても残虐な面をもつ動物ではないだろうか。物理的でも精神的でもよいが、自分から、ある「空白」を隔てた、誰かと誰かの「酷い争い」についての第三者の行動が、例えば「傍観」であったとすれば、それはまた「酷いこと」であるのかもしれないとは思わないだろうか。この会はただの傍観者の集まりではないだろうか。
 ただしかし、前述しているように、誰かを助たいという「同情」の気持ちは、現実において素直にその人間を助ける。ある著書の中で黒柳徹子は 「『生まれてきたということは、人のためにちょっと何かをすること』というフランスの詩の一節が大切な言葉として心にしまってある。」 と言っている。人の持つ「やさしい気持ち」とは、本当に素晴らしいものなのである。それは理念にあるように 「人間のもつ、尊く、素晴らしい部分」 だ。


 オレたちの会が始めようとしていることはいったい何なのだろうか? 平和について考える『第三者』とは、気高いのか、醜いのか。善なのか、悪なのか・・・。
  オレはみんなの意見を聞きたいと思う。


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