第二回討論会
〜ボランティア精神とはなんだろう〜
提案日:2001/10/26
提案者:栃木光太郎


 募金活動をしていて「偉いね。がんばって」という声をかけられることがある。しかし、オレは何か偉いことをしているつもりはないし、特に努力しているわけでもない。アフガンの人々に募金を送りたいから、このような活動をしているのだ。「自分が彼らの立場にいて、例えば自分の大切な人が殺されたら」と考えたときにとても胸が痛くなる。だからこのような活動をしている。

 正確にいえば、もう少し理由はある。そのような気持ちに押されて活動することはとても楽しいと言うことを、中学校のときから体で学んでいるからということだ。オレは、「自分の考えたとおりに行動することがどれだけの充実した気持ちを生むか」を知っている。だからこそ、このような活動をするとき、自分勝手になってしまうのである。自分が思うとおりにならなければ何も楽しくないからである。
 しかし自分勝手すぎるのはあまり思わしくない。なぜなら、「偉いね。がんばって」という声をかける人たちにとって、オレのしている行動は「偉い」わけだから、オレが自分勝手に適当な言葉を並べて意見を押していけば、なんとなくその気になって、例えば募金ぐらいしてしまうだろう。

 オレは、頭では「自分の考え方に賛成してくれる人は募金すればいい。興味があるなら会にも参加してみれば」というつもりで言葉を発している。しかし、クラス回りや呼びかけを行なっていく中で、やはり多くの人には「募金しなさい。私たちのしていることは正しいんだから、協力しなさい。会にも参加しなさい」と聞こえるかもしれない。募金をすることが正しいかは人によって違うのだから、このような言い方は押し付けにあたると考えられる。
 このように自分勝手な意見を発して起こる現象は、「奉仕活動に参加している」という気持ちでこの会に人が参加することである。代表のオレはこの会はあくまで同好会であるし、自分たちが楽しいように活動すればいいと思う。しかし、「奉仕活動」という言葉に変わった瞬間に、極端に「偽善者」になるというか、自分の正直な気持ちを発しなくなる人がいるはずだ。今そうでなくても、そのような場合は十分に考えられる。
 つまり、自分は何か偉い存在になったように思い、使命感を持ち、自分の時間を潰して活動に参加し、「どうだ偉いだろ」と言わんばかりになる。実際のところをみれば分かるだろうが、「どうだ偉いだろ」という態度の人に対して、一般的な人は「君は偉いよ。そう、よかったじゃん。じゃあがんばって」という返答をする。そう返答するしかない。さらに言えば、相手は「だからなんだよ」と反発の気持ちを持つだろう。みんなには今回「ボランティア」「偽善者」「奉仕活動」などの言葉について考えて欲しい。とりあえず、ここまでは「人のために何かしてやっている」という気持ちで活動すれば、そこには何も意味がないと述べている。



 では、本当にそうだろうか。たとえば、「どうだ偉いだろ」と言った時、ほとんど「うん。そうだね。君は偉い」と返ってくるだろうということは、だいたいそうだろう。「いや、ぜんぜん偉くない。君のしてることは最低だ」とはなかなか帰ってこない。なぜなら、今回の募金活動であれば、集めたお金はユニセフに送られ、実際に困っている人を救う。誰かの尊い命を救うのである。それがどれだけ素晴らしいことか、人間にとってどれだけ大切なものか、それを感じれば、あまり深く考えずに「面倒だから」とか「金がない」とかの理由で募金しない人を見ると、「何て魅力のない人間なんだろう」と思う。活動の根本にある動機が何であろうと、その行動が人のためになるとき、それは人間の素晴らしい部分、素敵な部分である と言える。オレは心底そう思う。
 例えばオレが「君は偽善者だね」と言われたとき、まずはそうでないから「いや別に偽善はしていない」と答える。しかし相手がそれでもわからない場合、「偽善者だろうと何だろうと結果として誰かが助かっているからいいんじゃない?」と言う。確かにそうだと思わないだろうか?

 さらに、NGOなどを見ればわかるが、そのような「ボランティア活動」は どんなに小さな単位であれ、社会的責任も持っている。
 どういうことかといえば、「オレたちは楽しくやりたいんだから、やりたいようにやらせてくれ。無償なんだから」というわけにはいかないということである。やはり、そのような活動には責任が伴うのだ。例えば署名運動をするならその意見に責任を持たなければならないし、その意見に筋が通っていなければ、社会から大きな反感をかうことになるだろう。
 例えば、誰かが道がわからず困っていて、「あっちだよ」と言った方向がぜんぜん反対の方向を指差していたとすれば、「しょうがないじゃん」の一言では相手が納得しない。「ボランティア活動」には、面倒なこともつきまとうのだ。いろいろ大変なこともあり、それがほとんどだからこそ、確かに「偉い」のだ。



 オレはみんなに聞きたい。このテーマは前回の「第三者議論」とも少し絡む部分があると思う。みんなは「ボランティア」や「奉仕活動」さらには「善」という言葉に自分の心の中にどのような定義を持って生活しているのか、そして「あじさい」が活動を進めていくなかで、オレたちはそれらの言葉に対してどのように付き合っていけばいいのかを。


参考資料:ボランティアの理論と実際


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