参考資料
ボランティアの理論と実際

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 それでは、ボランティアという外来語の意味を確認しようと思う。

 この言葉は元々、Volunteerという英語だ。語尾の"er"は人を示す接尾辞。つまり、keepとkeeper、adviseとadviserなどと同様の関係で、「"volunte"な人」ということになる。では"volunte"とはどういう意味なのだろうか?
 実はこの言葉の語幹をなす"vol"は、「意思」「するつもりだ」という意味の"will"と同じ語源なのである。つまり、volunteerとは単純に言えば「willの人」という意味になる。「(何かを)しようとする人」「自発的に行動する人」というわけだ。先にちょっとした好奇心がきっかけでも、そこに意欲を感じる出会いがあると活動がグングン広がっていくことを紹介した。しかし、不幸にしてそうした感動や充実感を得られなかった場合、意欲が減退し活動のぺ一スを落としていく人もいる。それはそれで仕方ない。まさに"will"(しようという意思)がなえてしまったのだから。

 よく、ボランティア活動の核心は「自発性」だと言われる。しかし、この「自発性」なるのは一体何か。実はこれがわかりにくい。最後に「性」の字がつくからといって、酸性やアルカリ性のようにリトマス試験紙の色が変わるわけではないのだ。結論から言えば、この「自発性」なるものの正体は 「抑え切れない思い=Will」 だ。つまりそれは焚き火もできる自由な遊び場を作ろうという「ロマン」であったり、不当に障害児の高校入学を拒否した行政当局に対する「怒り」であったり、復興に努力する被災地の人々に対する「共感」であったりする。人々はこうしたさまざまな 思い を抱き、それに突き動かされて活動にかかわる。
 ところで、「自発的」とは 言われなくてもすること だが、同時にそれは 言われても(自分が納得しなかったら)しない ことでもある。つまり しなければならない活動ではない のだ。活動を続けられないと感じたら、周囲にきちんと事情を説明しさえすれば休んでよい。それがボランティア活動だ。つまりボランティア活動は"must"というより"can"の世界なのだ。本人の意思によって自由にそれぞれのぺ一スに合わせたさまざまな取り組みが「できる」のだ。



 それだけではない。ボランティアでないとできないことが「できる」という面もある。それを、行政との対比で説明しよう。
 「全体」に拘束される行政ボランティア活動を行政と対比することは、ボランティア活動の性格を理解するうえで重要だ。それに冒頭に挙げた「ボランティア活動はクライ」という 偏見 の背後にも、ボランティア活動がお役所のイメージとダブって理解されていることがある。そこで、まず行政の取り組みの特徴を挙げてみよう。
行政の取り組みは、それが一つの制度となるわけだから、長期的継続できるものとなるよう慎重に吟味される。各界の意見を聞き、どこからも批判のでないプログラム(少なくとも住民の過半数の賛成が得られるもの)であることが求められる。もちろん、その効果は公平・平等に配分され、特定の対象に有利に働いてはならない。このようなルールが 公共的な活動の象徴 であるお役所にはある。
 このルールが、同じ公共的な活動であるボランティア活動にも該当するのでは…。どうもこう考えてしまう人が多いようだ。しかし、このような形で活動を進めるのは、実に窮屈なことである。「思いつき」は許されない。独創的な発想は危険だ。そして、好みや関心などの自分の気持ちを抑え全体に奉仕する姿勢が求められる。このような「心構え」が求められ、そのうえ、無償の活動ということになったら、ボランティアの「お地蔵さん」扱いも当然だろう。

 しかし、実はボランティア活動に以上のような「心構え」は必要ない。先にみたようにボランティア活動は「私・発」。まず行動を起こす自分自身の心に正直であることから活動は始まる。
 つまり、ボランティア活動は他人の意見に拘束されずに取り組むことができる。活動に伴う負担を引き受けるなら、公序良俗に反しない限り何をしてもよいのだ。もちろんその結果に伴う責任は、ほかならぬ自分自身が負わなければならない。しかし、たった一人の「戦い」ではない。ボランティア活動は、夢や願いを共有するさまざまな仲間と出会える活動でもある。「共感という連結器」の威力は絶大だ。職場や地域、年齢や時には国籍の違いを超えた仲間を得ることができることも少なくない。

 そのうえ、ボランティア活動で「公平性」は絶対の原則ではない。実はボランティア活動には"特定の相手のために、できる範囲で、思いのままに援助ができる"という特長がある。そもそも私たちは普段の暮らしですべての相手に対して常に公平な対応をして生きているわけではない。例えば、家族を大切にする、あるいはだれかを愛するということは、特定の人に特別の対応をするということだ。つまり、相手によってかかわり方を考えながら生活することは、日常生活ではごく一般的なことなのである。
 この柵手によって異なる対応をするという、その意味でまったく公平ではない私たちの生活スタイルは、ボランティア活動でも同様だ。というのも、そもそも何かの活動に取り組むこと自体、実は平等を欠く(欠かざるをえない)行為、となってしまうからである。例えば養護施設への訪問活動を始めるとすると、これはその施設に入所する子どもたちにだけ特別の援助をすることになる。現実にはその他にもさまざまな社会問題があるわけだが直接的には他の問題については取り組まないことになる。

 時問をやりくりし身銭を切ってする活動である以上、世の中にある課題のすべてに 平等に取り組むことは不可能 だし、もし平等であるべきだとすれば何もできないことになってしまうのである。逆に言えばボランティア活動は、自分のテーマとする課題を選ぶ 活動ともいえる。あるテーマを選び出すことなしには活動はできない。「何かしてみたい」という意欲だけでも参加できない。「この活動に取り組もう」という 私のテーマ と出会えないと張り切って活動することはできないのだ。
 しかし、これから何かしようという場合、すぐに「これが私のテーマだ」という活動と出会えるとは限らない。そこで、さまざまな活動体験プログラムに参加して、テーマと出会う機会をつくることも必要だろう。実際、イベントの手伝いのように短期間のプログラムも少なくない。やる気次弟で自分に合ったテーマを見つけられる機会はたくさんあるのだ。



 1995年。月の阪神・淡路大震災では約140万人の多くのボランティアが現地に入り、さまざまな応援活動を展開した。
   その現象は時に 「ボランティア元年・ボランティア革命」 とさえ表せられた活動したボランティアの多くは、被災地の様子を知り、「自分にも何か救援活動ができるのではないか。」という、言わば 衝動的 とも言える気持ちで、とにかく現地に赴いたのである。しかもその半数以上がこれまで一度もボランティア活動をしたことのないという人々で、活動のマニュアルもないまま、炊き出しの手伝い、救援物資の配布、水汲み、瓦礫の片づけなど実に多様な応援活動に手探りでかかわった。
 このことからも言えるように、ボランティア活動とは、必ずしも知識や理論、また今までの経験をいかして始めるのではない。それは 個々の内面的な動機、すなわち一人ひとりがさまざまな人々や社会的問題に出会い、彼らが強いられている 社会的制約や課題 を感じ、「何とかならないだろうか」「このようになればいいのにな」という自分自身の 押さえられない気持ちから、自由かつ自主的に始める活動 であり、それらの課題や制約の改善、解決を一つの目的として展開される活動である。したがって、それはだれかがお膳立てしてくれるものではなく、あくまでもそのお膳立ては自らがしていくものであり、言い換えれば自らがメニューを選択して始めることができるのがボランティア活動なのである。
 大震災においてはそのボランティア活動の大きな特性が生かされたと言える。ともあれ、ボランティア活動とは いつでも、どこでも、だれでもができる活動 なのである。
 一方、大震災時にこれだけ多くのボランティアが一気に活動に参加した背景には、いわゆる 社会的制約や課題 がだれにも容易に見えたことが挙げられる。6000名を超す尊い命が奪われ、20万戸以上の家屋が全半壊し、一時は30万以上の人たちが避難者として苦しい生活を強いられた。つまりそこには、大震災でとてつもなく大きな制約を強いられてしまった人たちが存在し、大きな課題が目の前に見えたからこそ「活動したいが何をどうすればいいのかわからない」というボランティア予備軍的な人たちであっても、どこからでも 本人のやる気 さえあれば、飛び込んで活動することができたのである。これは、このような大災害時の大きな特徴であろうし、いわゆる平時とは違うところでもあろう。

 戦後、わが国は高度経済成長を続けてきた中で国民の多くが 豊かさ を追い求めてきた。その結果、今や日本は世界でも有数の経済大国に成長し、国民の生活も便利で豊かなものになった。しかしその結果得られた豊かさの多くは「物質的な豊かさ」であり、逆に人間関係の希薄化は助長され、われわれの日常生活の中において、いわゆる 社会的課題社会的制約 がますます見えにくくなってきてしまったのではないだろうか。そのような中でわれわれは今、「心の豊かさ」「人問性」「自己実現」などを、より一層求めるようになってきている と言えよう。



 さて、大震災での活動を例にボランティア活動の特性などを述べてきたが、災害時でない、いわゆる平時においてはどうであろうか。災害時ではないいわゆる平時においても実は身の回りにたくさんの「課題」はある。
 ノーマライゼーションの実践というのは、人が人として当たり前に生きていける社会を構築することだが、まだまだ社会的課題を強いられている人たちはたくさん存在する。しかし、前述したようにそれらの課題が 希薄な人間関係 の中でますます見えにくくなっている中では、「何かしたい」という気持ちがあるならば、まずは隠れている課題を自分自身が見つけることから活動を始める必要がある。すなわち、それが 活動のお膳立てを自分自身がするということであり、だれかが活動を自分のためにつくり出してくれるのを指をくわえて待っていても、活動は決して始まらないということである。
 もちろん、ボランティア活動とは いつでも、どこでも、だれでもできる活動 ではあるが、みんながしなければならない活動では決してないので、無理に活動をつくり出したり参加したりする必要は全くない。したがって、活動することにとらわれるのではなく、自分自身がどのようなことに関心をもち、どんなことを、どのような形でできるのかを、つまり 自分の夢や願い を、そしてそれをどのような形で表すのかを、自分自身で考えることは活動を始めるにあたって重要な要素の一つである。

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