第三回討論会
〜「平和」とは、本当に定義できないか〜
提案日:2001/12/05
提案者:栃木光太郎


 あじさいの定例会では「ボランティア」「偽善者」など、言葉の定義について考える場面が多い。

 これらは、あじさいの「ありかた」に結びつくテーマである。私たちは、「あじさい」という会が、私たちの高校の中で、どのような位置や立場をとって活動していくかを模索している段階にあると言える。この会を発足しようとした瞬間からオレの中では大きなテーマであった、「活動の広め方」「会の行動の範囲」をどうするかということである。これらは募金活動を始めようとするとき、また終わった今、特に顧問の先生方などから、いろいろと声をもらっていたところだ。

 「この会はどのようにして継続性を保っていくのか」「平和問題は、信条・宗教・それぞれにもつ価値観により、全く違う解釈を持たれる。学校という枠の中で活動しているのだから、ある 考え・意見に偏った活動はできない。なぜなら同好会である以上、君らがすることは『学校が認めたこと』になってしまうからだ。」オレは、このような、言ってみれば「現実的」なこのような事項を「問題」として考え、「う〜ん、どうしようか」といった具合に悩み込んでしまってはならないと思っている。
 「活動の広め方」とか「一定の拘束の中で、どのような活動をするか」ということは、自然に見えてくると思うし、それを定めようとすれば、この会の存在意義そのものが危うくなるのと思う。「現実」を重視することが、自分たちの魅力を失わせると思うのだ。まずはそれを説明し、オレがみんなに考えてほしいことにつなげていく。




<「理想主義=現実主義」理論>

 オレはこの会の魅力を、『「気持ち・考えること」から「行動」がうまれる点』 また、『「考え方」や「意見」に最大の重点をおき、「人の枠」や、「利害」から離れた活動ができること』 だと考えている。(そうかもしれないというだけである。みんなはどう思うだろうか)
 例えば、一時期、国会では「奉仕活動を義務化しよう」という話し合いがもたれたことがある。しかし、オレは最近になって思った。中学校の生徒会などで行なっていた募金活動など、なんとなく世間で「よし」とされている活動について、その活動をすること自体に疑問をいだかないから、なんとなく「流れ」でしてしまうものだった。そして、そのような活動をするうちではイヤイヤの人もいたな、と。そのような活動に意味はあるだろうかということである。

 そもそも、人間の行動の素晴らしさとは、「自分なりに考えて、行動する」ことではないだろうか。なにか感じることがあって、そこに自然と行動がついてくるものである。逆にいえば、「なんとなく」している行動は意味不明であって、それこそ「無駄」とか「けちなエゴイズム」と呼べはしないか。オレは「目的」や「理由」をもって初めて、活動が意味をもつと思う。オレたちあじさいは「考え・行動する」会でありたい。
 そして、今回説明したい「理想」という言葉が生まれてくるのはここからである。「考える」ことがあって初めて、人は理想を求める目を開くのではないだろうか。「目的」や「理由」、またその大元となる「理念」などを考えていくことによって、それは「物事がどうあるべきか」という根本的かつ哲学的な思想を生み出す。「理想とはどこにあるか」ということである。そうして理想を求め、その精神を忘れずにいることが、今いかに重要になってきているか。それを考えて欲しい。
 例えば、日本の最高議決機関である国会でさえ、そこにいる人々は「理想」や「目的」を見失っているように見える。自己の利益、それを守るための人間関係・集団を守ること、つまりは「利害」。そのようなことばかりに固執して、結局「現実」がよい方向に向かってはいない。ここでオレは上述した二つの事項(この会の魅力を、『「気持ち・考えること」から「行動」がうまれる点』『「考え方」や「意見」に最大の重点をおき、「人の枠」や、「利害」から離れた活動ができること』の二つ)を結びつけ、「理想主義=現実主義」という結論にいたると思った。



 まず一つ目の、『「気持ち・考えること」から「行動」がうまれる点』について言うと、「理由」「目的」さらには「理想」「理念」を考え、そこから「行動」を生み出すということは、とても合理的だということだ。理想を求めて行動しても、一般的には結果的に「現実」はよくならないと思われがちだが、実は逆だと思うのだ。
 また二つ目の『「考え方」や「意見」に最大の重点をおき、「人の枠」や、「利害」から離れた活動ができること』については、「現実」と呼ばれる自分の立場や、そのために人間関係や集団を保つこと、守ること。(間違った現実の見方だと思う)つまり、利害関係。それらから離れて、「意見」「考え」、つまり「理想を目指した思想」を重視して議論を行なうことが、結果的に「現実」を「理想」に近づけるものであるだろうと思う。
 『理想を求めること』=『理想主義』は、結果的に、イコール『現実に忠実であること』=『現実主義』であるのだ。

 よく考えれば簡単なことだろう。政治家と呼ばれる人間が、政党という本来「政治的思想」について集まるべき集団に、「利害」という理由で繋がりあっている。そこで行なわれる議論は「君の『意見』に賛成か」ではなく「君についたら自分は損をしないか」である。確かにそれは必要なことで、「現実」かもしれない。しかし、議員たちが「理想」をしっかりと捕らえ、発言していけば、必ず「現実」はよくなっていくはずだ。
 また、つい先日パレスチナではイスラエル過激派の連続自爆テロがおき、それに対して激しい報復攻撃を行なっている。「現実」(誰かの陰謀でそう思わされているだけかもしれない)はこうだろう。「報復攻撃しなければ、明日はまた我々のうちの誰かが殺される。これは正当防衛だ」 では理想とは何だろう。オレは簡単だと思う。「報復はよくない。暴力は暴力を生むだけ。もうこれ以上人が傷つくのはよくない」 この理想を突き通し、世界中の人全員が(テロの犯人も)そう思えば、もうこれ以上人が傷つくこともなくなるだろう。それが理想だと考えるなら、それに近づくに違いない。しかしさあどうだろう。ではなぜこの数千年もの間、戦争はなくならなかったのだろうか?それは歴史の先生でも容易にわかることではない。

 今までの説明で、「理想を追求すれば現実はよくなるなんて当たり前だ」と思う人は多いだろう。しかしオレはここを強調したい。誰も『理想』を求めて声をあげない状況が、今まさにオレたちの周りにあるのではないか。『理想』を考えること自体を止めてしまってはいないだろうか。
 確かに一方で、テロ事件を起したり、過激な活動をしているのは、オレの言う「理想」を自分たちの信じるものとし、自分を洗脳して「原理主義者」となった人たちだ。哲学的な「大前提」にたより、自分をそこに由来するものとし、結果的にはそれを理由に自らを「爆弾」にしてしまった。この文章の中では理想といっているが、そのようなものを定義し、それにあまりに固執して行動するのは、よくないというよりは、危険である。(だから、オレはこの説明で、「自分の信じる理想のために何も妥協は許さない」とか、「理想は達成されなければならない」と言いたいわけではないのだ。)
 しかし、今オレたちを囲む社会は、そのような要素があまりにないのではないか。「なにかを信じる」という動作が、人々の中に、あまりにない。理想という言葉を自分の中で作れないならばまだしも、「戦争はなくなって欲しい。平和になればいい」そう思っている人(ほとんどの人ではないだろうか)までが、それを声に出そうとはしないのだ。このような状況は、あまりに危険な状態とか、あまりに奇妙な状態だと言えると思う。(しかし、今がまさに戦争状態であると仮定すれば、確かに戦争下では「異常」が「正常」であるから、当たり前なのかもしれない。)
 幸い、オレたちは自分の意見を発信することを拘束されていない。あじさいは今「透明な目」をもち、「理想」を見つめ、その考えを外に向かって発信することができる。何が理想かは見えなくてもいい。「正義を見ようとするという正常」を求め、それを意識の先頭に置いて行動すること ができるのだ。




 オレがあじさいの定例会で「ボランティア」「偽善者」など、会の「ありかた」を考えさせられるようなテーマを提案したのは、やはり、自分の心の中に「理想」を見つけて欲しいからだ。オレが思う「理想」とみんなが思う理想は確実に違う。そう言えるのは、理想には段階があるからである。
 例えば「究極」という段階で「平和とは『戦争がない状態』である」という理想を持つ二人がいたとする。しかし、もうひとつ下の段階で、「そのためには『誰も武器をもたないほうがよい』」とするか、「そのためには『戦争がない状態を維持するためには武器も必要だ』」と、意見が分かれるかもしれない。そうやって考えればきりがなく、下に行くにつれて「思想」と「行動」の境界がわからなくなり最終的には「行動」の末端になる。そうやってつきつめていけば、「活動を学校から外に広げていくことは必要だ」と「学校内で広げていくべきだ」の違いや、「プリントは配った方がいい」と「配布物はやめて放送だけにしよう」の違いといった段階になるのだ。(ここからも「考えること」と「行動は」一つの線でつながっていると考えられる)
 今、例で「究極」という言葉を使ったが、「平和とは何か」という議論は「究極の理想を求める議論」である。そして、オレは勝手に理念の中で「私たちが目指す『平和』というものについても」と表現している。



 やっと今回の本題に入れるが、定例会の中で、これについてこんな意見があった。

『平和についての考え方は人それぞれ違うと思う。だから、会の理念の中で「平和」を「目指すもの」にしてしまうのは、よくないのではないか。』

 この意見はあじさいの存在意義の模索作業の、ど真ん中を突き抜けるものだ。
 例えば、あじさいをなるべく短く表現するなら「平和を考えて行動する会」である。しかし、目的や理念の中では「考え、行動することに意味がある。それが我々の理念だ」として、「目指すものは平和」とは言っていない。この人の意見のとおり、「乱立する平和論であるのに、それを目標にすることはできない」のである。文脈上、「私たちが目指す平和というものについても…」となっていた。しかし、オレたちは、『平和』という言葉をこのまま放っておくわけにはいかないだろう。というより、通常であれば、仮であっても「平和問題研究会」と名づけた時点で「平和」について、深すぎるくらい深く考えるべきなのかもしれなかった。しかしなぜオレが、はじめの方のテーマに「ボランティア」「偽善者」を選んだかといえば、(上述の「理想を見つけて欲しい」と同じなのだが)まずは、「自分」をみつめてほしかったのだ。
 考えてみてほしい。私たちが平和を議論するとき、まず頭に浮かぶのは「世界」「国際関係」「人種」「宗教」などの、言ってみれば「大きな人間集団」のイメージである。「戦争がない」とか「世界中の人がみんな幸せ」とか「異なった国や人種の人々が互いに認め合っている」とか、そういうものを思い浮かべてしまうだろう。オレはそのようなありきたりな平和議論に、本当に重要な部分は見えていないと思ったのだ。平和の真実は、ひとり一人の精神の中にあると思った。だから、「ボランティア」や「偽善者」というテーマは、「平和とは何か」を、自分に問い直すところから考える試みだった。

 オレは理念で、「平和という、とてつもなく大きな流れについても、たった一人のほんの小さな気持ちと行動から成っていくはずなのだ。」(上で紹介した意見のあとで、「私たちの目指す平和……」という表現を改めたもの)と言っている。これはオレの平和に対する考え方の一番重要なところである。「平和はひとりの人間から成る」ということだ。つまりさっき言った、「平和はそれぞれの精神に由来する」ということである。
 ここで、集団というものの考え方を説明したい。




<集団理論>

 理念の中でオレは、「この宇宙の全ての事象は、たった一つの素粒子から成る、、、、、樹海は1本1本の木から成るし、また大海は水滴ひと粒一粒の集まりであるだろう。」などというよくわからない例えを持ち出しているが、しかしその通りだとは思ってもらえないだろうか。どんなに大きな集団であれ、それは「個」であるのだ。集団とは例えてみれば「ひもの形」である。「個」を紐の枠で包んでみて、それを集団と呼ぶのだ。人が動けば形が変わってしまう。紐の形のせいで人がいるのではなく、人がいるせいで集団はできあがる。集団の中での「個」の持つ意味とは絶対的に大きいと言いたい。
 また、ある「個」の、全体への影響の大きさというものについても考えてみよう。集団がどこかの方向へ向かうとき、それはつまり、「いくらかの個」がその方向に力を加えていることを意味する。誰も力を加えずに、ものはどこへも動かない。また、「いくらかの個」が力を加えているということはすなわち、「最初に押し始めた個」がいるのだ。その個は「たった一人だけ」で押し始めたかもしれない。しかし、それを見た他の個がそれをまねした時に、それはとてつもなく大きな意味を持つようになる。(核融合反応のイメージがある)他の人に伝染した瞬間に、それは大きな広がりを見せ始めるのである。多くの場合そうだと思うが、一人の行動はひとりの行動ではないのだ。人と人は必ず関わっているものだし、そうやってつながりを持っている限り、必ずひとりの行動は広がりをもち、同時に力を持つのだ。現実において、開かれた(つまり周りに発信していく形の)行動は意外に周りへ大きな影響をおよぼすのだ。
 この二つを考えると、理念の「『私ひとりが何かしたところでなにも変わるはずはない』なんて考えを持つのはやめよう。あなたや、私や、ひとり一人の人間がいなくて、地球上に誰がいるというのか。」というところに集約されるが、つまりは「一見意味のないひとりの行動」がなければ、集団の動きはありえないし、また周りに広げていく形であれば、そのような行動は意外なほどに、「一見意味のない」から「集団の動きを変えるもの」になりやすいのだ。




 平和というものを、「世界」とか「人種」とか、なにか大きなものとしてとらえていくことは、オレは、あまり意味のないことだと思うのだ。さっきから言っているように、「『平和』とは『それぞれの心の中』にあるもの」だと思う。自分の心の中で平和を探してみる。そしてそこから本当の平和が見えてくるのではないだろうか。
 平和という言葉が、時に「幸福とはなにか」「生きることとは、死とはなにか」「人間の欲望とは何か」といったことにつながる場合があるが、それはオレが考えるには、とても自然なことである。これらは極めて「自分」に近い思想だ。一見「平和」には関係ないが、それは究極的にいえば、平和を考えることと同じである。
 これは先ほどの「理想主義=現実主義」の考え方につながる。「国際関係」とか「宗教」とか「人種」とか、そういった事項を念頭に置いて平和を考えれば、「違う宗教がお互いを認め合えるか」とか「実際、武力によって平和は支えられている」とか、そのような考えが、「間違った現実の見方」と言えるのではないだろうか。それは一見「現実」にみえるが、自分の中から平和を探し、「理想」を求めていけば、また違った道が開けてくるかもしれない。「本当は戦争なんてよくないと思うけれど、テロにやらっれっぱなしであることはできないから、報復攻撃をする。」これを「現実」と思い、何もしないでいるより、「戦争はよくない」という究極の「理想」を求めて、少しでも多くの人が声をあげるようになれば、結果的にそれは「現実」を「平和」に近づける、違った道を見つけることにつながる かもしれないではないか。

 オレは自分が、「『平和』とは、それぞれの心の中にあるものかもしれない」というひとつの考え方をみんなに言った時点で、「平和とは何か」という、あじさいの存在意義のど真ん中への道が、少し見えるかもしれないと思った。オレは、この会を始めようと思うまで、「平和とは何かを考え、定義しようなんて、結果的には「奇麗事」とか「机上の空論」で終わるに決まっている」と思っていた。その時のように「平和に対する考え方は人それぞれ違う。だから定義できないのだ」と言ってしまえば簡単だが、今は 「平和は定義できないか」ということを考えること自体に大きな意味を感じる。上述のある人の意見のように、「平和は定義できないから、それを目指すのはおかしい」のだろうか? 確かに一つの結論はでないかもしれない。「理想」は人それぞれで、ひとつではない。しかし、それは「見えないこと」とは違うのだ。「平和とはなにか?」「平和とは定義づけできるのか?」ということをみんなで考えていけば、きっと道は開けると思う。

 オレはみんなに聞きたい。「平和」とは何なのか?そして、「平和」は本当に定義できないのかを。


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