第四回討論会
〜真実な情報は、どこにあるか〜
提案日:2001/01/10
提案者:栃木光太郎


 地球市民フォーラム2001企画担当者の山口さんと話していて思った。「平和を考えるときに一番大切なことはなんだろう?」
 みんなはどう思うだろう。あじさいの活動を通してオレが今思うには、『認めること』。それが大切なことの一つだと思う。


 第三回定例会で、「他人の意見を『理解すること』と、『認めること』と、『納得すること』ってどう違うの?」という意見があった。どれがどうという定義は人それぞれ違うと思うが、オレは自分で都合のいいようにこう定義した。

  『理解すること』 → その考え方がどういうものだか理解する
  『認めること』   → その考え方が存在することを認める
  『納得すること』 → その考え方に賛成し、自分の考えに取り入れる

 全く都合のいい定義の仕方ではあるが、オレの主張を説明するには分かりやすい。
 この定義上では、『納得する』ためには『認める』ことが必要で、『認める』ためには『理解』することが必要である。つまり、オレたちの頭の中では『理解』『認める』『納得』の順に思考回路が働いているということになる。


 これを前提として、『認めること』が平和を考えるうえで大切だと思う理由を説明したい。
 まず理解しなければならないのは『認めること』と『納得すること』は全く違い、『認めること』は必要だが、『賛成』はしなくてもよいということだ(当然のことだが)。

  オレ:オレはこの意見を認めるよ。
  誰か:じゃあ賛成なんだね?
  オレ:いや、そうじゃなくて、そういう意見もありかなってこと。
  誰か:じゃあ認めてはいないの?
  オレ:いや、だから、認めてるって。

という具合の会話で頭が混乱することがあるが、例の都合のいい定義を使うとこうなる。

  オレ:オレはこの意見を認めるよ。
  誰か:じゃあ、納得した?
  オレ:認めるけど、賛成はしない。
  誰か:あっそ。わかった。

 この会話でもわかるように、オレたちの意識の中では認めないこと(その意見の存在自体を否定すること)がありえる。つまりは「オレはこの意見を認めるよ」と言っている時点で、「この意見」を認めない誰かを意識している、ということだ。
 「平和を考えるうえで『認めること』が必要だ」というのは、「あらゆる意見の存在を否定してはいけない」ということになる。


 しかし、そんなことを言うと、「人を殺してもいい」とか「他人のものを盗んでいい」とか、そういう意見の存在を認めなければならない。平和問題に照らし合わせてみれば、「戦争は正義だ」とか「差別は正当」という意見が通ってしまうことになる。
 人間は長い歴史の中で『権利』や『法』について考え、これらはそのなかで常に『認められていなかった』のではないだろうか?
 『認めるべきでない意見』(存在を認めてはいけない意見)は存在するかもしれない。 しかし、オレは、安易に『認めるべき意見』と『認めるべきでない意見』を区別するのは危険だと言いたい。疑問に思った人がいるだろう。「正当防衛など、様々な要素で殺人が正当化される場合は数多くある。ましてや戦時下では殺人は正義だ」「ルパンの盗みはありではないか」「アメリカが正義と主張し、世界が認める報復は『戦争』である、という考え方はあってはいけないのか」
 平和問題を考える上で、「正義」は定義できないものなのかもしれない。逆にいうと、「正義」を定義すること自体が、世界を平和でなくしているような気さえする。ある意見の存在を認めないことは、それ自体がとても危険なことなのではないだろうか。平和は『認めること』なしには始まらないと思う。みんなはどう思うだろう?


 ではやっと本題に入れるが、「認めることが必要だ」とした上で、さっき言ったように、『認める』ためには『理解すること』が必要だ。そして、『理解すること』より前に、もう一段階必要なことに気づかなければならない。『知ること』が必要である。



<情報戦争としてみる今回のテロと報復>

 9月11日に起きたテロ事件は情報戦略という点で周到に計画されていたという意見がある。彼らはニューヨークのテレビカメラが外に出ている割合が多い朝のあの時間を選び、メディアに自分たちの行動を報道させ、全世界の人々の心に、視覚的な印象とともに強いインパクトをもって、長く残るものとなった。
 そしてそれから1時間たたないうちにブッシュ大統領はテレビ演説という方法を使って「この事件はテロの仕業だ」と断言し、「これは戦争だ」という強烈で分かりやすい言葉を使って、自分たちの「敵」を示した。ブッシュ大統領もメディアを最大限に利用したといえる。国民の心には、視覚的なイメージとともに、ブッシュの言葉が強烈に残った。

 報復攻撃に移るまでにアメリカは様々な情報戦略を駆使している。
 その後もブッシュはテレビ演説を多用し、常に自分は、アメリカは正当だと発言し続けた。初めのうちの「これは戦争だ」という言葉は、数日後には「テロは世界共通の敵であって、これは絶対的な悪に対しての戦いだ」となった。また、アメリカは、報復攻撃の「イメージ作り」のための専門宣伝組織を作り、全世界に「正義の戦い」イメージを染み込ませようとしたという。
 さらに、英紙が9月30日、「48時間以内に米軍が攻撃開始」と報じ、世界に緊張が走ったことがあったが、実際の攻撃は1週間後の7日だった。「情報を流して国際世論や敵の反応をみる作戦だったのかもしれない」と振り返る専門家もいる。米国や英国は、アフガン国民や国際社会に向けてのメディアも最大限に活用した。攻撃が近づくにつれ、米VOAと英BBCは、アフガン国民向けに現地語のラジオ放送を拡大し、米英の主張を宣伝した。米軍機で食糧を投下した人道支援について、ブッシュ大統領はテレビ演説で「アフガンの人々は米国の寛容さも知るだろう」と語った。

 報復攻撃が始まって、タリバン側も含めて、さらに情報戦略は過激化した。「殺人者」「邪悪」と、ブッシュ大統領が語気を強めて圧力をかければ、タリバン政権は「対話」を打ち出して市民の犠牲もちらつかせ、米国の出方をしばろうとした。そのようなタリバンの行動に対して、アメリカが真っ先に攻撃目標にしたのは現地のテレビ局だったという。世界の最強国・米国と、ビンラディン氏をめぐるタリバン政権の言葉の応酬には、宣伝・心理戦の側面が強くにじんでいたといえる。爆撃を受けたあとの地には、たくさんの紙切れが落ちている。それはアメリカが爆弾と一緒にばらまいたビラで、ビンラディン氏が骸骨に変った姿とともに「アメリカに寝返らないか」と書いてあるという。
 「神は米国の破壊を祝福し、彼らを天国へ招く」。米国の攻撃後、ビンラディン氏の姿と声が世界中のテレビに流れた。米国は、この映像をスクープしたカタールのテレビ局に対し、同国のハマド首長を介して圧力をかけようと試みたという。米国批判の放送内容が目立つのが理由とされる。



 これらの情報戦略は、互いに、いかに自分の都合のよい情報を流し、また、いかに自分に都合の悪い情報を言葉を変えてごまかし、できるだけ消し去る、そういう戦略である。
 ビンラディンを育てたのは紛れもなくアメリカである。冷戦時代のロシアのアフガン侵攻に対抗するゲリラ部隊を養成するための金は、アメリカが惜しみなく出した。ビンラディンはそのゲリラ部隊の若き一員だった。当時、例のごとくアメリカは自分たちの正義を主張し、そして現在、その正義は彼らにいわせるテロになった。
 情報と言うと色々なとらえ方があるが、ここでオレのいう情報とは言ってみれば「誰かの発言」である。それは極端に誰かの主観に偏ったものだと言える。例えばそれが写真やビデオなど、確かな証拠に見えるものであってもだ。アメリカが世界にビンラディンを犯人とする証拠を示したが、その信頼性が疑われているように、映像であろうが、音であろうが、その情報は都合のよい部分だけ伝えられたり、加工されたりして、結局、誰かの意図が反映されているのだ。つまり情報とは主張である。

 アメリカの報復攻撃に対して反対の声があまりにも少ないと思う。たくさんの消防士たちが、命をかけて一人の人間を救出する。家族が、友が祈り、医者が死力を尽くして一人の命を助けようとする。世界のどこかでは今この瞬間も、たった一つの命に対しての祈りが、叫びがあるのに、なぜ「報復」というわけのわからない理屈が曲がり通り殺人が許されるのか?
 一人二人なんて比にならない、そこで失うもの、万単位の人が、たくさんの叫びが、私たちと同じように一人の母に愛され育てられた人間たちが、その命が人の手によって踏み潰される、こんなに悲しいことが許されるのか?なぜ罪のない子供を、飢えに苦しめさせ、一人一人倒れていく姿を、世界が正義と呼ぶのか! そのような意見が少なすぎはしないか。
 多くを『認める』ためには多くを『理解すること』が必要である。多くを『理解する』ためには多くを『知ること』が必要である。あらゆる立場から、側面から一つの物事を眺めてみる。それが多くを『知る』ことであり、それは様々な人の意見に耳を傾け、未知の考え方をさがす作業と同じである。

 オレは自分で自分のことをひねくれすぎだと思っているが、この世界ではひねくれすぎがちょうどよいくらいだろう。もともと、「真実」とは存在するものなのだろうか? オレは時々「この世界はすべてヴァーチャルなものではないか」と想像する。オレが見て、聞いて、触って、そこにあると感じたものは、脳が勝手にその情報で「感じた」と判断しただけである。宇宙なんて存在しなくて、すべてはオレの夢の中でおきていることなのかもしれない。「宇宙を知ろうとすることは自分が何者だか知ろうとすること」という考え方は、天文学者の頭の中ではスタンダードである。遠く果てしないものを眺めれば、そこに自分が見えるかもしれない。近くにある、くだらない目先のことばかり考えていると、それは本当に大切なものを見失うことかもしれない。
 オレはみんなに聞きたい。真実な情報とはどこにあるのか? それとも、そんな情報を求めることこそ嘘なのだろうか?


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