第五回討論会
〜人間は何を知らないのか〜
提案日:2001/02/07
提案者:栃木光太郎


 みんなは時間の概念について考えたことがあるだろうか。
 今オレたちは、時間という、真っ直ぐで一方向な「流れ」の中に生きているような感覚を持っている。しかし時間というものは本当に、矢のように真っ直ぐ、一方向に「流れていく」ものなのだろうか。
 仏教思想に通っている「無常観」は、文字通り、「物事は常に変ってゆく」という世界観らしい。時間というものがどこに向かってゆくのかはわからないけれども、いつまでも同じであるということはありえないという、「時間の流動性」を感じたものではないだろうか。  また、時間についての概念が「生」や「死」という概念につながることがあるようだ。オレたちの「生」、つまり「魂」は、ひとつの「輪」の中をぐるぐる回っていて、例えばオレが死ぬと、オレの魂がまた他の命として生まれ変わる、という「輪廻」の概念だ。
 ある作品の中で、until twelve of never という部分があり、日本語訳には「永遠」としてあった。彼らにとって時間の流れというものは、惑星の公転であり、日がのぼり、沈み、その繰り返しという円形であり、生きるということを、そういう哲学の中に置いている。
 また物理天文学者のホーキンスは宇宙の収縮とともに時間が逆流すると唱えた。これらの時間の概念は流動の形は違うものの「流れる方向」をもっている。
 しかし、オレにとってはそもそも時間というものが「流れるもの」かどうかが疑問だ。すべての物質が引力を持つように、空間というもの自身が時間というものを所有しているような、また時間とはひとつのエネルギーではないかというようなイメージがある。

 もともとあらゆるものごとは「ひとつの方向性」を持つものなのだろうか。
 オレたちは一番身近でしかも根源的問題として「生から死へ」というひとつの方向を背負っていると言える。オレたちはものごとに対して、常に「優れているか」「劣っているか」「強いか」「弱いか」「素晴らしいか」「酷いか」といったような、一定の方向を見つけたくなる。人間が潜在的に持っているそのようなものの見かたは、「自分が今生きていて、いつか死ぬ」という「方向」を常に見つめていること が根本にあるように思う。




<生物学でみる人間>

 生物の進化について、面白い研究があったことを思い出した。
 「生物の進化は、常に生物同士の複雑な相互関係の中から生まれ、『優れたもの』または『強いもの』が生き残るというような一方向的なものではない」という研究だ。
 学校で習う進化論として有名なのは「ダーウィンの進化論」である。ダーウィンは「弱肉強食」の概念こそが進化を生み出し、常に優れたものが生き残ると説いた。オレはこの研究を知って、ダーウィンの進化論に大きな疑問を持った。教科書では人間を「高等生物」と定言し、「この生物のこういう仕組みはこれをするためにある」とか「このようにしたいからこういう進化をした」などと説明する場合もある。そのような表現はダーウィン的な進化に対する概念を押し通したものに見える。
 この研究では、「生物間の競争で生き残るものは、『優れたもの』でも『強いもの』でもなく、言ってみればそれは偶然におこる」と説いている。この研究の代表的な実験として「大腸菌の実験」をあげることができる。
 繁殖能力の優れた大腸菌と劣った大腸菌を同じ環境下で繁殖させると、「劣った大腸菌」優れているほうと比べると明らかに生存能力に欠け、すぐに全滅するだろうと思われた大腸菌さえ、20パーセントも生き残る、というものだ。生物の授業で、「生殖能力の優れないものは絶滅する」と決め付けられているが、それが「常」だとは絶対に言えない。ここではむしろ、生き残りのほとんどは偶然によっておこると説いている。

 また、「それは偶然おこる」の「偶然」と言うのは、「生物間にある複雑な相互関係」によるものだ、と説いている。
 コンピュータによる生存実験を行ったところ、そのシミュレーションの中では、驚くほど現実世界に近い進化が起こったという。初めのうちは形も仕組みも単純なものがそれぞれに繁殖し、増殖していく。いろいろな遺伝子が組み合わさり、バリエーションにとんだ生物世界が広がったと思うと、そこに環境要因などが加わり、そのほとんどが死んでしまう時代がおとずれる。生き残った一部の生物の中で、広く繁栄するものがあったかと思えば、次の瞬間にはそれとはまったく別の種類の生物が栄える。それが栄えたかと思えば、以前に滅びてしまったかのような過去の生物がまた繁栄する。
 説明の途中で、「あえて進化に方向性を持たせるならば、それは複雑化かもしれない」とあった。しかし、それも後で否定される。シミュレーションの中でまたその後の時代に栄えたのは、生物誕生初期の素朴な構造を多く残した、単純な生物だったからだ。現実に当てはめてオレがイメージした人間の次は「昆虫」であったが、研究者の判断はもっと単純な生物を示した。「バクテリアなりウイルス」ではないかということだった。




 上述している「人間の価値観の根底には、なにごとにもひとつの方向性をつけたがる性質があると思う。それは『自分が死に向かう』というひとつの方向を背負っているがゆえ、それが意識の底にあるからだ」というオレの考えは、全く根拠がない勝手な意見だ。
 しかし、何事にもひとつの方向性を持たせたがる人間の性質というのは、世界から戦争がなくならないこと、お互いを認められないことなどをみれば容易に認めることができる。それは「人間の傲慢さ」とか「結局は自分主義な人間という生物」というふうに言い換えることができる。

 オレはあじさいの活動を通して、「人を認める」というのがどういうことかを真剣に考えるようになった。
ある人の意見で「私は、相手の気持ちを知ろうとし、考え、受け入れることのできる心の広さ、思いやりが平和に必要なことだと思うのです」とあった。
 平和を考えるうえで、「寛容の精神とは何か」というテーマは、常に最前線にあると思う。この意見は、平和というものの真実、言い換えれば人間の真実を真っ直ぐとらえる議論につながる。「寛容」を「平和」という言葉に結び付けて考えると、「どんな信条や宗教や人種のひとも、それぞれが認め合うことが必要だ」といったような、やけに屁理屈じみて、そのわりにありきたりな文章が浮かんでくる。しかし、それをもっと真っ直ぐな目でとらえてみれば、実はその『寛容の精神』というものは、オレたちがなぜ生きているか、なぜ死ぬかと言う議論、オレたちが背負っている「死」への概念が側面のひとつとしてあることが見えてくる。

 世界のあらゆる哲学や思想が語るものと言うのは、最終的に「人間の生きる意味」というものにたどり着く。オレは小学校3年生ぐらいの 時に勉強が『嫌なもの』になった瞬間に初めて「自分はなぜ生きているんだろう」という疑問をもった。オレはそれを誰かに問うたびに、「それは自分で見つけるものだ」とか「なぜ生きているかを知るために生きている」とか、それらしくもっともな意見によってその答えをごまかされてきた。そして自分でもごまかしてきたのだ。
 しかし、今思うには、そうやって「生きる意味」というような「ひとつの方向性」を求めること自体がとてもくだらないことに思えてならない。自分は何かに向かって生きている、自分は常に自分を素晴らしいものにするために、向上心を持って生きていく。それがとても希薄な意味しかもたないように思えてならない。そんな考え方の先にあるものは、その「何か」や「素晴らしいもの」が見つけられない自分であり、またその後ろにあるものは、「方向性」というものさしを何にでも当てたがるオレ自身の人間としての性質だ。人間は常に「ひとつの価値観」を作り出したがり、自分自身を知らず知らずのうちにそれから抜け出せない存在にしてしまう。「何かを認めたがらない精神」を助長している。



 例えば、今オレたちが生きている「資本主義」という経済の仕組み。資本主義社会の中に生きているオレたちは、知らず知らずのうちに「がんばり主義」になり「利益主義」になっていく。富を他人から奪い、何かを自分のものにすることばかりを信じるものとする。資本主義の信じるものとは「自由競争によって得られるお互いの向上」である。
 しかし、よく見てほしい。そこで言う「向上」とは何を目指しているのか。どれだけ多くの無駄使いをし、どれだけ消費するか。資源をどのように食い、その効率をどれだけあげるか。それを「向上」と定義し、自分たちでそれを疑う余地のないものとしている。その社会で生きるためにオレたちは一生懸命勉強し、それをなんとかして「生きる理由」『夢』にしたがっている。
 今や環境問題は深刻だ。オレたちが「資本主義」という一つの極論にすがり、これからもその価値観を変えなければ、想像は容易だ。地球が滅ぶか、上述した研究によれば、昆虫の世界、はたまた単細胞生物の世界になるだろう。確かに人間は知能が発達し、進化の最終段階にいる「高等生物」だし、すでに地球は人類の支配下ともいえるが、そうだ、確かに「優れている」かもしれないが、それが実際自分たちの生存を危うくしているではないだろうか。もともと「優れている」とか「強い」なんて言葉に意味があるのだろうか。



 オレたちはあまりにも無知だ。それがどういう意味を表すかが少しずつ見えてきたように思う。つまり、オレたちが無知な理由は、未知なものが目の前にたくさん転がっているからではない。その理由は人間と言う生物が、勝手に概念を固定し、自分たちを無知な存在にしたがる生物だからではないだろうか。

 「かわいそう」という言葉について、先日行なった出張討論会でも活発な議論が交わされた。その中で、ある方が『私は戦争体験があるから、彼らのことを「かわいそう」というより、むしろ身近に感じ、自分が苦しい思いをしているかのような気持ちになります』とおっしゃった。
 そしてまた、アフガニスタンに対する支援活動を進めているクレイシ・ハールーンさんは「現在のアフガニスタンの状況を知らず、そこに兵器で爆弾を落とすアメリカ政府、そしてそれを支持するアメリカ国民、また日本人、彼らこそがほんとうにかわいそうな人々なのです。」そう言った。



 あじさいができた時、オレは何を知っていたというのだろう。
 オレは毎日楽しいことに囲まれ、素晴らしい芸術や学問をうけとり、そしてたくさんの人の優しさを感じ生きている。今もそこで戦争が起きているなら、そこにいる人々がとても哀れに思えてならなかった。楽しくてしようがないオレは、誰かがどうしようもない絶望の中にいることを知り、その裏返しに大きな悲しみを自分の心の中に持ったつもりでいた。自分とは違う境遇にある彼らを見つめ、自分と重ねようとすることで何かを見出そうとした。でもそこには当たり前のごとく「自分」しか見えていなかったのかもしれない。

 オレは「戦争の本当の苦しみ」を知らなかった。
 だから「かわいそう」なんて思ったのだと思う。
 オレは「本当にかわいそうな人は誰か」を知らなかった。
 そして今も、当然のように「誰が哀れか」なんてわからない。

 未知が存在するから何かを知らないのではない。何を知らないのかが疑問なのだ。オレはみんなに聞きたい、オレたちは今、何を知らないのだろうか?


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