第六回討論会
〜オレたちは恵まれているか〜 (本文)
提案日:2002/02/15
提案者:学生・市民の会代表 塚田晋一郎
栃木光太郎


 塚田代表の文章、そして「100人村」のメール、ともに「南北問題」を一つのキーワードとして掲げている。平和を考える人の中には、南北問題をはじめとする経済格差にその視点を置く人がいる。
 オレは「南北問題」について、いまいちイメージがわかなかったが、「100人村」の話を聞いて、なんとなくその実態が「絵」としてわかってきた。

 今までオレは「先進国と発展途上国は貧富の差が激しい」そんなふうに考えていた。
 しかし、実態とは 「極少数による富の占拠」 だとわかった。オレが今まで知ってきたのは「貧富の差の大きさ」であって、例えば「日本では食べ物があるが、世界には食べるものがなくて飢餓に苦しむ人がいる」というようなことだった。「100人村」で、「オレが持っている豊かさは、世界のほとんどの人が持っていない」ということを知った。自分は 世界の人々のほとんどより恵まれている とわかった。オレだけじゃなく、「100人村」を知り、多くの人はその事実にまず驚き、ショックを受けたことだろうと思う。
 そして、その後にオレの中にだんだんと沸いてきた感情は、「自分はなんて幸せなんだろう」ということだった。自分は日本のこの時代に生まれ、食べるものにも、着るものにも、住むところにもなに不自由なく生きてきた。毎日学校で授業を受けられるし、好きなスポーツも楽しめるし、いい音楽をたくさん聴ける。高度な文化の中に生きて、充実し、楽しく生きている。
 知らないうちはそれが当たり前だと思っていた。

 戦争を生きた世代の人と話をすると「戦時中は食べ物がなくて、ひもじい思いをした。たくさん苦しいことがあった。あなたたちのような若い人は恵まれた時代に生きている」というような話がよく出てくる。自分の祖父には昔から「お前は安全な時代に生きている。わたしは自分がいつ死ぬか分からない時代を生きてきて、尊い命が無駄に失われるのを見てきた。だからお前はしっかり生きろ。生きることができることを、究極の幸せと思え」といわれてきた。今でもときどき祖父には同じようなことを言われる。
 そういえば、そのたびに疑問に思ってきて、ぜんぜん分からないことがある。
 オレは何もしていないし、彼らも何もしていない。
 しかし、オレは恵まれた時代にうまれ、祖父は戦争の時代に、アフガニスタンの人々は世界最貧国に生まれた。
 その違いはだれのせいだろうか。
 その疑問の答えはいまだわからない。
 しかし、ある一人の意見である。「彼らはそういう運命で、死ぬ奴は死ぬんだ」



 「南北問題」という言葉に「問題」と含まれているように、極端な貧富の差は「よくないもの」なのだろう。オレがアメリカの報復攻撃を知り「ひどい」と思ったように、「悲しい」と思ったように、誰かが食べ物さえなくひもじい思いをしているなら、それはオレの中では同じようなことだ。
 誰かが富を独り占めし、その他の大勢が苦しむ世界など、誰が理想と思うだろうか。
 オレが司先生に平和について尋ねた時、司先生は「誰もが自分の立場を安全なところに置きたいと思い、それを守りたいと思う。差別がなくならないのはそういうところに理由があるし、それが人間にとって当たり前のことと言ってしまえばそうかもしれない。『経済と平和』ということで考えれば、それが理想かどうかは分からないけれど、これから人類は『共に貧乏になる』という方向に向かうしかないだろう」とおっしゃっていたと記憶する。
 世界最貧国の一つであるアフガニスタンの人々に医師としての支援を続けている中村哲氏はこうおっしゃっていた。「アフガニスタンの子供たちは食べ物もろくに与えられず、本当にみすぼらしく貧しい生活をしている。しかし、不思議なことに、その表情には笑顔が絶えない。笑い声が絶えない。しかしどうだろう。日本に帰ってきて、こんなにも豊かな国にいるはずの人々の表情は。人ごみにある数えきれない表情は、幸福に満ちた笑顔より、むしろ卑屈な精神を思わせ、何か辛いことを背負ったような表情が多く見える。若い人までそう見えるのだ。一体人間にとっての豊かさとは何だろう 」と。
 そしてまた、土屋先生は自分の海外の滞在を語る中で「高層ビルの立ち並ぶ都心より、田舎へ行けば行くほど、その精神の豊かさは増していく」とおっしゃった。

 「日本は物質的には豊かだが、それと引き換えに精神の豊かさを失った」という言葉を聞くことがあるのはオレだけでなくみんなもそうだろう。先進国にある資本主義とは物質の豊かさは生むが、その合理的で利益主義な考え方は、その裏返しとして、自分勝手で傲慢な精神を生み出す のかもしれない。
 仮に、皆が物質的に豊かになるようなことを考えるとする。
 例えば世界の人口の1/5を占める中国人民が、全員日本人と同じような消費を行い、そのような文化生活を営もうとすれば、すぐさま地球上の食料は不足し、限りある資源をすぐに食いつくし、人類は破滅すると言われる。
 司先生の言うように、人類は貧乏になるしかないのかもしれない。



 でもオレたちの精神は、一度手に入れた豊かさを自らの手で失わせることを、本質として許さない。
 生徒に対して行ったアンケートの返答に「あじさいの人たちが本当にアフガニスタンの人のことを思って活動をするなら、自分たちの携帯の使用料金を全部募金に当てるくらいの事をしたらどうだ」とあった。
 オレは募金箱に100円玉を一度きり、入れただけだ。彼らの苦しみと、オレの豊かさを比べれば、オレは自分の貯金を全部下ろして募金に当てるべきなのかもしれない。

 アメリカは自分たちの「富の象徴」を崩され、「もうこれ以上崩されるわけにはいかない」という理由で「復讐」した。もともと「武力の行使」は酷いものだろうと思う。しかしオレは、自分を守るために「復讐を認めること」を否定できない、オレたち自身の心の汚さを強く感じる。



 アフガニスタンで誰かが苦しんでいるのは地球の裏側のことだが、それを生み出す本当は、オレの醜い精神そのものだ。「100人村」を読んで「自分は幸せだ」と思ったオレは、多分本当に幸せではないんだと思う。
 「豊かさ」とはどこにあるのだろうか。オレたちはひもじい思いをせずに生きている。オレはみんなに聞きたい。しかし、それは「恵まれている」ということなのだろうか?

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