第七回討論会
〜少数意見のもつ意義とは何か?〜 (前編)
提案日:2002/02/28
提案者:栃木光太郎


 アメリカの下院議会でただ一人、反戦を説いた議員がいる。バーバラ・リーという議員だが、みんなの中にも知っている人がいると思う。
 現在アメリカは戦争へと大きく傾いている。9月11日のテロ後、10月7日の報復攻撃以来、アメリカは「テロとの戦い」と称した「戦争」を押し進めている。すでにソマリアへの武力攻撃も決まっている。小泉首相はブッシュ大統領の訪問時にブッシュ大統領の「戦争」を流鏑馬(やぶさめ)と重ね、彼の放つ矢を「正義の矢」と言った。その矢の向かう先には西部劇に出てくるような「悪人」がいるのではなく、罪のない人々の無惨な状態があるのではないだろうかとオレは思うが。もはや日本はアメリカの植民地であるかのようだ。原爆で失った尊い命の叫びを忘れ、「正義の戦争」という「矛盾」になんの疑問も持たず賛同するだけだ。
 現在のアメリカは軍国主義に走った50年前の日本と同じような状況だと考える人もいるようだ。そんな社会の中でただ一人反戦を訴える彼女はとても勇敢だといえるのかもしれない。
 実際には彼女の意見に賛成する人も大勢いるわけだから、ただ一人というのはおかしいかもしれないが、しかし、彼女がアメリカ社会の中で「はずれ者」であることは間違いない。



 先日の「あじさい出張討論会」では、平和を考えるときに大事なものは何か、というテーマで話し合いを行なった。
 その議論の中で「自分と違う意見の人間をどうやって認めるか」というものがあった。「自分と違う考えの人間」なんていうと、あたかも1対1での意見の相違を問題にしているかのようだが、想像すればわかると思うが、「わたしとあなた」の議論の中で「わたし」が「あなた」を認めたつもりになることは意外と簡単だ。
 むしろここで重要となる状況というのは、「大勢」対「少数」だ と思う。
 有田先生の授業で、「誰もがなかなか自分の意見をはっきり言おうとしない。それは発言することによって自分の立場が危うくなるのを恐れるからだ」という言葉があったと記憶する。
 平田先生のオーラルコミニュケーションでは「アメリカなどの欧米では自分の意見をはっきり言うことが必要で、無言であることは空虚だとされる。日本ではだまっていることに大きな意味があり、むしろ静寂が丁重される」という言葉があったと記憶する。
 それがどの場面においても普遍的の存在するものではないようだが、最低でも、今オレが生きているこの日本の社会では、「自分の意見を強く主張すること」は、自分の立場を危うくし、集団の秩序を乱すものになりうるようだ。
 もともと、「自分の意見を主張したがる」という行動には「自分は他の人とこんなふうに違う意見を持っているんだよ」という意思が、大きく働いているものだと思う。オレの場合はまさにそれだ。どうせやるならありきたりは嫌だと思っている。
 また、他人との違いを強調しようがしまいが、多勢の意見に賛成しようがしまいが、結局のところ、自分の意見を示せば誰かしらとの相違が生まれる。
 だから、「自分の意見を主張する」という行動は、「自分は誰かとは違う意見をもつ人間なんだ」ということを強調し、示すような意味を持つ行動だといえるのではないか。

 確かにみんなでまとまっているところに一人だけ変な調子の奴が入ってくれば秩序が乱れるし、集団としての利益につながらないことも多い。
 日本の社会で「はずれ者」は必要とされていないとすれば、意見の主張とは無駄なものに思えてくる。



 司先生の授業の中で、「ミツバチの社会」についてのお話があった。「『ミツバチの巣』という小さな『社会』には常に怠け者が存在する。例えばその『怠け者』ばかりを集めて新しくミツバチの『社会』を作ると、その中で再び『働き者』と『怠け者』に分化する」というものだ。
 また三輪先生の授業では「人間の体とは一つの『社会』のようなもので、それぞれの器官の役割分担とその秩序を保つことによって生命活動が成り立つ」というお話があった。 また、「生物の進化は『進歩』とか『発達』というような『一方向』な目標をもつ変化ではなく、それぞれの生物間の複雑な相互作用の中で生まれる、偶然性をもつ変化である」という研究があるというのは第五回で述べたものだ。
生物が生き残る条件というものがそのような複雑系の中に存在するならば、「複雑化」こそが生物の強さと表現できるかもしれない。
この理論はやけに難そうに聞こえるが、自分たちの生活に当てはめてみれば意外と理解は簡単だ。もし、人類がみんな共通な免疫しか持っていなければ、例えばオレがちょっと強めなインフルエンザウイルスに感染し死亡したとすると、人類滅亡ということになりかねない。しかし実際はそうならず、個体ごとに違う免疫を持っているから、たくさんの人が死んでも、中には生き残る人もいるはずだ。「分化」による多様性こそが、まさにその生物の強さなのではないだろうか。

 オレは柏陽高校という枠の中にいて、その一社会の一人だ。柏陽は進学校であって、多くは大学に進学する。なんとなく自分も大学に進学するんだろうと思う。だから、なんとなく「勉学に励む」ことを今自分にとって重要なことに感じる。
 しかし、ある人は「柏陽生は勉強をそんなにがんばって、他の学校から見たらおかしいくらいだろうと思う。自分は、今は勉強なんてどうでもいいし、他に興味がある」と言う。彼は「はずれ者」だが、その存在はクラスやこの学校にとって特にかけがえないものだと思う。「彼がいなければあれはあんなふうにすることはできなかったな」とか、「彼がいるおかげでこうなった」という事実がたくさん心に浮かぶ。
 しかし、実際オレは彼を「変わり者」だと思うし、「そういう人もいるんだな」ということでしか彼を認められない。自分が彼のように行動しようとは思わないからだし、それはオレの周りにいる「多くの人」が、彼ではなく自分と同じような行動をしていることに裏付けられている。



 「民主主義において多くの人が認めるもの、それが正義だ」というのはよく聞く理論だ。例えば世界中の人がみんなそろいもそろって「1+1=3」だと叫んでいれば、オレは最初のうち「1+1=2」だと思っていても、そのうちに「1+1=3」で納得してしまうかもしれない。
 「1+1=3」は極端な例に聞こえるかもしれないが、今アメリカ、また日本でおこっていることをみれば、この例えは誇大とはいえないかもしれない。「平和」を「戦争」で築こうとする理論が90パーセントの支持を集め、それを否定するものが少数派である。実際に、国際社会は「平和」を求める行動として「報復攻撃」という形を選んだ。
 上でオレは彼を「変わり者」と言ったが、よく考えてみればオレ自身も変なやつかもしれない。例えばオレがありきたりな人間だったら、あじさいはこの世に存在しないだろう。柏陽に「平和」をテーマにした組織が生まれたのはこれが初めてだという。
 そしてまた、オレがしていることが「変な行動」だとするなら、それを作ったのはオレの周りにいる「変な奴ら」のおかげだ。「彼がこう言ったから」オレは何かを思ったのだし、「彼女が隣にいたから」オレはなにかに気づいた。それらの積み重ねこそが、誰もがそこに「その人」である理由である。

 民主主義社会において、その社会を動かすのはまさに「多勢」であるが、その根底にあるのは「個人」というなんともちっぽけな少数たちだ。
 オレは上述の三輪先生のお話で、「人間の体」という「宇宙」を感じた。たくさんの、いろいろ違うものが存在するから、そこに魅力がある。不思議がある。そういうものかもしれない、と。



 ここにきて、バーバラ・リーさんの、そのたった一人の反対票が、「民主主義」という考え方の根底にある一番重要な部分を示しているように思えてきた。「民主主義」とは単に社会の仕組みを定義づけるものにとどまらない、「自分は何を認めるか」という、人間の「生き方」というものにつながっている。
 集団や、社会や、宇宙と言うものは、協調性やその秩序、または「進展」「発達」という言葉で表されるような一方向的なものばかりを求めないのだと思う。
 例えば、身体や精神に不自由がある人々を、社会は「障害者」と呼ぶが、それを「障害」というマイナスイメージの言葉で片つけて、ただの邪魔者として扱うような精神は、何か大切なものを失っていると感じる。
 彼らの何が劣っていると言うのだろう。誰もが身体や精神に何かしらの不自由や不満を抱くものだろうし、また、目前に誰かの表現があれば、それが「障害者のものか」なんてことを誰が気にするだろうか。それが美しければ誰もが感動する。
 彼らのもつ「障害」と呼ばれるものは、まさに「個性」だ。
 もし生物の進化が「分化」という複雑化に向かっているとするなら、もし多様性こそが生物の強さだとするなら、自分と違うものこそ、多勢でないものこそ、我々の輝ける財産なのかもしれない。
 今オレは自分が何かを思ったり、あなたがそこで何かを感じたり、そんなちっぽけなことにとてつもなく大きな不思議を感じている。
 オレはみんなに聞きたい。排除しようとすればすぐにできるような小さな主張の意味、少数派であることとはどういう意味を持つのだろうか?

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 参考資料:神の見えざる手


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