第七回討論会
〜少数意見のもつ意義とは何か?〜 (後編)
提案日:2002/02/28
提案者:栃木光太郎


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 参考資料:神の見えざる手

 ここまででは、現代の経済活動は、個人の発言や行動、誰かの発した情報によって大きく変わる、そういう時代だと述べたが、経済活動に限らず、人間は「情報」によって大きく自分の行動を変える ものではないだろうか。
 そういう点で考えれば、今回のテーマに密接に関係する「民主主義」についても、その仕組みが単純に機能することを疑うことができる。
 「民主主義」といえば、国民のそれぞれが自分の意見を政治に反映させることができる仕組みと言えると思う。言ってみれば多数決主義であり、誰か一部の人で決めないで「みんなで決めよう」というような仕組みと言い換えることもできるかもしれない。
 みんなで決めるのではなくあくまで間接民主制だ、と言うこともできるが、国民の支持によって政権が大きく動き、国民一人一人が責任持って政治に参加しなくてはいけないと叫ばれる今、「みんなの政治」がスタンダードな考え方となると思う。
 しかし、オレたちの身近に視点を置けばすぐに理解できることだが、多少たりとも「みんな」というものは「無責任」な存在ではないだろうか。
 みんなで決める時の「一人」の意識とは、「ここで自分がこの意見に手を挙げれば大変なことになる」と考えて一票投じるものではない。むしろ自分の意見にそれほど大きな責任は感じず「なんとなくこっち」で手をあげる人がおおい のではないだろうか。
 何でもかんでも「みんなで決めよう」ではなく、しっかりとしたビジョンを持ったリーダーが一人いて、その人がしっかり考えて集団を引っ張っていくほうが、結果としてうまくいく場合が多いと思う。あじさいはある程度オレが仕切っていなければ機能しないだろう。一つのバランスの理論として、あまりに「みんなで決めよう」としすぎるのは良くないと言えると思う。ポリスの直接民主制のように政策の統一性が無くなったり、本当は少しも優れたリーダー性など持っていないかもしれない首相を、みんなで揃いもそろって支持してしまったりするのかもしれない。

 9月11日のテロ事件後、アメリカ国内で、報復戦争に賛成する人の割合が9割にも上った。「戦争」に賛成する人が9割を超える状況とは、一体オレたちに何を示しているのか。日本でもテロ直後は報復攻撃に賛成する人の割合のほうが高かった。
 ブッシュに代表されるが、権力者はそのような時「国民の支持」を武器にするだろうし、それを守ろうとするだろう。今回の場合アメリカは情報管制を行なってアメリカの国民や、国際社会に対して自分たちの不利になる情報を規制していたということがよく言われる。もしアメリカ政府が本当にそのような情報管制を行なっていたなら、もしその報道管制が無ければ、もしもっと戦争の悲惨な部分や、戦争に反対する人々の声が報道されたなら、国民の意識は「反戦」にむかったかもしれない。いや、むかったにちがいないだろう。

 変な例えだが、オレは実際にアメリカ本土に行ったことはないから、「アメリカがある世界」が本当かを疑うべきなのかもしれない。本当は地球は平らで、星は天球上をぐるぐる回っているのかもしれない。オレが知っていることのほとんどは、誰かの情報によって「そうだ」と信じているだけ で、もともと根拠なんて無い。
 アメリカが行なっている戦争についてオレたちが知るすべは、TVなどのメディアに大きく偏っている。メディアの伝えることを、オレは本当と信じるしかない。



 近代の日本においてTVが急激に普及したが、そのもたらしたものとして、それは「快か不快かの価値観」だ、という話を聞いたことがある。スイッチ一つで好きな時に見ることができ、ころころチャンネルを変えることができる。見たくないものは見なくていいし、逆にいえば見たいものしか見なくなる。TVは自分に快感をもたらす情報にしか興味をもたない人間を、誰も意識しない間にたくさん作り出しているのかもしれない。
 そしてもう一つ、TVは「共有性を売り物にしている」とよく言われる。TVを見ている人は「他の多くの人もこれを見ている」という約束とともにその情報を受け入れる。ニュースなどでは特にその意識が強いし、TVCMの宣伝効果が他の方法と比べ抜群に良いのはそこに理由がある。情報を売るほうは「みんなも見ているんだよ」と言い、見るほうは「みんなが見る情報がほしい」と言う。ここにおいては「神の見えざる手」は絶対的にありえそうだ。需要の大きいTVというメディアの値段はやけに高い。たった15秒のCMの値段はものすごいと聞く。



 ここでオレたちは「民主主義という多数決」の多い方とは、誰かの手によって簡単に変えられることに気づかなければならない。
 アメリカでは実際にそれが起きたのかもしれない。
 アメリカ国民のほとんどは自分たちがしていることを「戦争」だと気づいていないのかもしれないのだ。
 そしてオレたちも、自衛隊を送り出した。その攻撃の先にはオレたちには到底すべてを理解することのできない精神世界をもつ人々がいる。ニュースでソマリアについて伝えていたが、その中では、ソマリアの人々はナイフをいつも持ち歩いているということと、覚醒作用のある葉っぱを食べているところしか紹介されなかった。伝えた彼らの、いかにも下等な存在のように思たいその気持ちと狙いがうかがえる。
 イスラム教の持つ精神世界の深さを知らずに、彼らの何を馬鹿にできると言うのか。彼らを認めろと言いたいのではない。彼らを自分たちの先入観で見下すことしかできないオレたちを嘆きたいのだ。オレは「私はあなたを認めています」とアフガニスタンに援助を続けるあるイスラム教徒の人に言った。彼は「私を認めるかなど問題ではありません。私は、それを知ることができず誰かを傷つけているあなたたちを哀れみます」と言った。
 確かにソマリア人はナイフを持っているかもしれないが、アメリカ人はピストルを持っている。
 確かにソマリア人は葉の覚醒作用に頼るかもしれないが、オレは自分の富を一番大切にするくせに、自分自身の実力に少しも頼る自信が無い。

 それもこれも、オレが発言するすべては、知る機会が無ければ少しもわからなかったことだ。
 想像してみてほしい。地球の裏側で起こっている爆撃について、自分の周りにどんな情報も無ければ、それをどうやって知ろうというのか。
 ダーウィンの進化論にしても、神の見えざる手にしても、民主主義の大切さにしても、世間で通用するもっともらしい理屈は「もっともらしいだけ」であって、現実の重要な部分を見落としている場合があるように思う。
 ダーウィンの進化論が、実際はそのような仕組みで生物は進化しないかもしれないという理論は五回で紹介したが、市場経済と神の見えざる手について考えると、それが理論の説明の中枢の部分でとても似ているように思えてはこないだろうか。



 オレたちは単純な理屈で説明できない「複雑系」の社会に生きているのかもしれない。何かが正しく、何かが間違っているといった、「一方向な考え」について、また、自分と違う意見の人をどうやって認めるか と言った議論は、「平和」を考えるときにもっとも大切な論点の一つに入るのではないだろうか。「少数意見」がどのような意味を持つかというのも、そのような議論に含まれると思う。

 みんなからの意見の中には、そのような論点を綺麗に浮き出させる言葉がたくさんある。

 「他人の気持ちを知ろうとすることが大切だと思う」
 「『真実』についていろいろ考えてると自分が消えていくような気がする」
 「平和とは個々が考えるそれの重なる部分」
 「アフガニスタンについて考えると同時に、ニューヨークで被害を受けた人についても考えるべき」
 「運命ってあるのか無いのか、誰にも本当のところはわからないよね」
 「世界中の多くの人々が少し関心を持ってくれれば、助かる子供たちがたくさんいると思う」
 「世界に生きる全ての人に、それぞれ違った幸福がある。
  誰かの幸福を、他の誰かが決めつけることはできない」



 これまであじさいは「平和」についていろいろと考えてきた。メンバーそれぞれの中で、自分なりにいろいろ考えたり、他の人の意見に納得したり、なにかに気づいたりしていると思う。
 上に取り上げたような言葉はそれぞれ「思いやり」「寛容」「真実」「正義」「多数と共有性」「立場と現実」「現状を知ること」「一人一人の力」「幸福」など、たくさんの平和についてのテーマを見つけ出すことのできる、深い意見だ。このような意見があじさいの中からたくさん生まれてくるということは、みんなが平和に真正面から考えている証拠だと思う。難しくてオレには理解できないような意見もたくさんあるし、上に取り上げた意見についても、書いてくれた人に話を聞きたいことがたくさんある。それらについて、みんなで話し合って、考えを交換していけば、もっと素晴らしい言葉がたくさん生まれるだろうと思う。
 普遍的に言える事として、深い思い入れがあったり、心のこもっている言葉は、必ず人に何かを思わせる。
 みんな、素敵な言葉だ。

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 参考資料:神の見えざる手


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