第七回参考資料
市場経済における「神の見えざる手」

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 「少数意見」の持つ意味を考えさせられる話として、経済における「個人」の役割についての話題も含んだ、「神の見えざる手」に関する理論を思い出した。



 「市場経済においては『神の見えざる手』によって需要と供給が自然に調整される」というのはアダム=スミスの有名な言葉だ。
 供給量が需要よりも少ないと、必要としているのに物が少ないわけだから、値段は上がる。逆だと物が余るので、値段は下がる。そのような市場価格の変動が、自然の調整機能として、効率のよい資源の分配を行っている、というもっともらしい理屈だ。
 しかし、実際に市場経済が「神の見えざる手」という理屈によって、真っ直ぐ適正化の方向へ向かうとは限らないという理論が存在する。

 まず、一般的にいわれる、教科書的な経済の仕組みで考えてみよう。
 数え切れないほど多くの人間によって、そして星の数ほどの個々の行動によって変動していく「市場」とは、まさに「川の流れ」のようなもので、市場とは常に一定の秩序、つまり「神の見えざる手」によって、その流れは「流れるべき方向」に向かって流れていく。例えば、個人の引き起こす小さなエピソードや、ちょっとした行動は、その大きな流れの中ですぐに薄められ、無視できるものになってしまう。
 アダム=スミスの残した「神の見えざる手」という言葉はこのようにとらえられてきたが、では、実際のところを考えてみてほしい。
 例えば「神の見えざる手」がきちんと働く市場であれば、「流れるべき方向」として、「よいものが売れ、悪いものは売れない」という理論が成り立つと考えられる。しかし、そこで生まれる疑問として、そもそもよい商品と悪い商品の違いがはっきりしているかということが浮かぶ。



 アダム=スミスは「神の見えざる手」を、「市場の適正をもたらす調整機能」として論じたかったのではなく、哲学者として(アダム=スミスは経済学者ではなく哲学者らしい)「確かな基礎をもった『富』と確かな是認をもった『徳』に支えられた社会の秩序」を論じたかった、という主張を聞いたことがある。
 その主張によれば、アダム=スミスの生きた時代の経済の状況は、「貨幣」という極めて流動的な動産こそが富のシンボルの時代であったらしい。アダム=スミスはその状況に疑問を発する形で、「土地に根ざした労働生産物こそが富のシンボルだ」という理論を提唱したはずが、後世の人々が勝手に「適正化」の理論として定義づけてしまったと言うのだ。



 現在オレたちが生きている市場は刻一刻とめまぐるしく状況が変る、極めて流動的な状況だ。
 「よい商品か悪い商品かわからない」と言うのはそこからなのだが、例えばそれが食べ物というアダム=スミスの言う「土地に根ざした労働生産物」ならば、「量のわりに値段が高い」ものは「悪い商品」と、誰もが言えるだろう。しかし、それが音楽CDだったらどうだろう。2850円でアルバムを買って、それが得な買い物か損な買い物かは、買ったその人自身でしかわからない。いや、その人自身でもわからないものかもしれない。
 ビクターなどの「VHS」と、ソニーの「ベータ」の、ビデオの話は有名だ。
 性能では完全に上と思われていたソニーのベータが敗れ去ったことは、今あなたの家にあるビデオが多分VHSだろうことからもわかる。VHSの勝因は、当時ソフトの量で少しだけVHSが上回り、初めの時点で多少ともベータに勝ったことだと言われる。ベータが主流になることを疑った消費者は、少しだけVHSに傾く。少しVHSに傾けばそれが主流になるとよむ消費者が増え、またVHSが売れる。そうしてVHSは急激に普及した。このような現象を、「ポジティブ・フィードバック」と言うらしい。オレが単語の意味から勝手に定義すると「一つの結果が、次の結果に強く影響すること」を言うのだと思う。

 「神の見えざる手」が絶対的でないというのは、オレたちの日々の生活を考えてみればわかることだ。あなたが商品を選ぶ時、その商品を買うのはなぜか。あなたのその行動は、いろいろな要素が複雑にからみあっておこる現象だろう。その商品のCMがちょっとだけかっこよかったからかもしれないし、その商品のお店での並べられかたによるかもしれないし、友達が「あれいいよね」って言っていたからかもしれないし、あなたが店に訪れる3日前にポジティブフィードバックが起きて、真にあなたが欲しいと思う商品はすでに淘汰されていたのかもしれない。
 また、「情報」というものが、極めて不確定なものであることから「神の見えざる手」の不確実を唱える学者もいる。「人間の経済活動というものは『情報』によって多分に左右されるものであるから、(経済活動だけでなく人間の行動そのものにいえると思うが、)情報が行き届かないところでは『神の見えざる手』は働かない。特に貧困国でそのようなことが起こるし、先進国の一部に情報の独占者が生まれれば、それは富の独占を意味するのである」と言うものだ。



 現在、オレたちをとりまく市場とは、まさに「複雑系」であると言えるのではないだろうか。インターネットは世界中を個人と個人という単位で結びつけるようになった。誰かが発した言葉が、それをきっかけとして世界中に広がることは「100人村」などでも現実にあった。評判が評判を呼び、大ブームとなることは、現在それが経済の仕組みの主役ではないかと思えるほどだ。「神の見えざる手」という簡単な理論では、もはや経済について何一つ現実を説明することはできないかもしれない。

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